白洲正子のかくれ里を巡って
ここの所忙しかったのですが、少しだけ落ち着いたので、近江の旅をまとめました。
山梨の旅ではデジタルデトックスという目的のもと、自分の人生を見直す素晴らしい時間を過ごしました。
何も持たない、何もないという事は自由で軽く、新しい可能性に満ちているのだと思いました。
夜になれば本を読む。朝になればヨガをする。これぐらいしかやることはなく、昼はぼーっと自然の中にいるだけです。
近江の旅は逆に自分の体を使って答えを探す旅でした。
ただひたすら歩く、階段を上る、その頂上にはっきりとした答えはなくとも、下界へ下りればまるで生まれ変わったような気持ちに・・・。
まず最初は名神高速道路の米原から北陸自動車道の木之本で降り、JR北陸本線の高月駅に向かいます。
湾岸時観音堂(向源寺)は「近江山河抄」の中で紹介されていた寺です。湖北エリアになります。
国宝の十一面観世音菩薩は東京国立博物館でご覧になった方も多いかと思いますが、普通はお堂などの中で距離のある場所でしか見れません。
ところが観音像は収蔵庫のなかで、ガラスケースもなく、目の前10㎝ほどの距離に静かにお立ちになっていらっしゃり、その近さに心臓がどきどきしてしまいました。
まして収蔵庫の中には案内の男性だけ。
どうぞ気のすむまでじっくり見てくださいね・・と。
全く人の声もしない無音の空間で向き合う事に静かな感動を覚えました。
博物館では後姿をじっくり見ることは出来ませんが、ここでは一周ぐるっと回って様々な角度からみることが出来ます。
沢山の方がこの観音像の美しさを書いているので、私ごときが語ることも憚れますが、戦乱を逃れるために土に埋めて難を逃れた仏像です。こんなに美しい仏像を間近で見れるなんて・・。
ここまで来て本当によかったと思いました。
そのまま高時川沿いに走り、更に山道を上がり鶏足寺、石道寺へ。
白洲正子が「近江山河抄」や「かくれ里」で紹介してからはそれなりに観光地化されていて、山里の雰囲気も損なわれているのではないか?という杞憂はあっさり砕かれ、私は子供みたいに目の前の美しい景色にはしゃいでしまいました。
沼にはサンショウウオがいます。歩けば草に紛れたおびただしい数のカエルたちがドボンドボンと逃げていきます。
地図を見るとオオサンショウウオの沼が近くにあるそうなのですが、そこまではとても歩けませんでした。
茶畑の休憩小屋で、お抹茶を点てて飲みました。
朝ホテルでポットにお湯を入れてきたのです。
美しい景色と干菓子と抹茶と。
点前も何もなく味わうだけの時間こそお茶の楽しみなのかも知れません。
紅葉の時期は素晴らしいのだそうです。
ですが人が多いのが苦手なので、私は今の時期で良かったのだと思いました。
こちらの十一面観音菩薩は口にうっすらと紅がさしてあり、可愛らしい観音像です。
作家の井上靖さんが小説「星と祭」の中で観音像を村の若い娘に例えたことで有名です。
湖北の菅浦には行かず、彦根から近江八幡に下り「石馬寺」へ。
聖徳太子の馬が石となって沼に沈んだことが由来のお寺です。
苔むした石の階段を滑らずあがれたのはカレンブロッソだったからですね。
かなりきつい階段でしたが、上がり切って見た景色の美しさは言葉には表せません。
静かで人もあまり訪れないような寺ですが、国宝級の11の仏像がずらっと並ぶ姿には圧倒されます。
とても気の良い空間で、何か強力なパワーでリセットされたような・・・・。
ここで重かった頭の中の情報はすべて一旦流れ、生まれ変わった気がしました。
老蘇の森のある奥石神社により、そこから石塔寺へ。
白洲正子が日本一の石塔だという「阿育王塔・石塔寺」です。
またここでも先の見えない石段・・・。
158段あると言われました。
今日一日で何段の階段を上がったでしょう。
登りきると視界が開け大きな石塔が目の前に。
そして数万基の石塔がびっしりと並んでいます。
司馬遼太郎や瀬戸内寂聴もこの石塔にはとてつもない力を感じたそうです。
全ての神社やお寺で人に会うことはありませんでしたが、この石塔寺だけは一人で訪れたら足がすくんでしまうような気がします。
ここで小雨が降り、 賽銭をいれて鐘楼をつくと、音が山全体に広がりなんとも幻想的な雰囲気に。
ほんの少し葉が色づいていて、夏の終わりを感じました。
駆け足で巡った近江の旅。
まだまだ何一つ見ていない気もします。
今回はダイジェストで、ここから何か新しい旅が始まっていくようでもあり、もしかしたらリセットされるための旅で最初で最後なのかわかりません。
翌日は奈良を少し深く旅しました。
それはまた次回に。
ところで東京に帰って最初にしたことは、着物の処分でした。
旅の間読んでいたヘンリー・D・ソローの「孤独は贅沢」の中に
【身軽に生きることで、暗闇の中にいても、いつも自分を見つけることができる】
という言葉があります。
日々どんな場面でも余裕をもって身軽に暮らしていれば、自分を見失うことはないと彼は言います。
今年に入り少しづつ数を少なくしてきましたが、ここにきて更に枚数を厳選して、着物に興味のある若い方や知人に貰って頂きました。
本当に大切なもの、ずっとそばにいて欲しい物、時を経て育てて行ける物。
目の行き届く数の着物だけを手元に置いて、一枚一枚を慈しみながら大切に着ていきたいと思っています。