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日本茜と仏画

2021年4月19日 15:53  草花の色 




少し前になるが日本茜を美山の美しの山草木舎より分けていただいた。

西洋茜やインド茜の染色は今まで何度かやってきたが日本茜は初めてとなる。

日本茜の栽培は難しいのでほとんど入手不可能であるが、美しの山草木舎さんでは染料として使える安定した栽培に成功されており染色をやるものとしては感謝の気持ちしかない。

生であるので掘り起こしたらすぐに染めなければならない。

クール便で送っていただいたが、仕事の都合でその晩に染めることができず一旦冷凍して保存した。


日本茜の色は染色に手間がかかるせいか、室町時代を境に急速に衰退している。

江戸時代 将軍吉宗の頃、吹上御所において延喜式に基づく染色法を復活させたが、なかでも日本茜の染法は多大の労苦を要したという。

さて、私の日本茜の染めはどうだったかというと、一回では思ったような色は出ない。

古式のやり方で、椿灰を使い米をおかゆ状にして黄みを取ったが、やはり何回も染め重ねなければ納得する赤は出ないのだろう。

しかし透明感のある橙の色であることは間違いなく、自然の色は美しいとあらためて感動したのは確かである。

と同時に3日間寝不足で続けた作業の結果に落ち込みもしたが、次回はもう少し違う方法でやってみようという欲が出た。







草木染の前には必ず草木塔にてお参りをする習慣がついた。

米沢で弟子入りした時に師匠に言われたことである。

人間の都合で草を刈り取り、木を伐採するのだからその命に敬意を示すことが大事であると。

これは20年前、ハワイにいた時の師匠にも言われた。

当時ハワイの草木や花でシャツを染めたいと言った時に、植物に捧げるオリ(祈り)を唱え神から許可をもらってから切るようにと。

自然崇拝は日本もハワイも同じなのだと思う。

人間の都合で何もかも自由にするという奢った気持ちが、今の地球を作ってしまいバランスを崩す事で様々な災害が起きている。

自然は人間よりもはるかに高い次元にいて、時に私達を冷めた目で見ているようにも思う。

彼らからしたら私は蟻のような小さな生き物で、短い人生をせわしなく動き回っている。



草木塔は全国で168基あり、そのうち146基が山形県内にある。東京には8基あるのだがその中の一つが現在私の家の側に建っている。こんなすぐそばにあるというのは不思議なことで、ここに引っ越してから米沢に修行に行った事に何か意味があるようにも思う。

物事は見えないところで繋がっていて、そのサインを見つけるのか見逃すのか、それが生き方で重要なポイントであると常に考えている。


間違った方向に進んでいるときは実は体調が良い。

なのでそれが正しいことのように脳が理解してしまう。

タバコも吸っているときは美味しいのだろうし、薬もそうであろう。(私はどちらも経験がないが)

体に悪いと知っていても、食べてしまう。

人を批判することも、悪口を言う時も、脳は心地よいと感じるからこそ人間はやめられないのだと思う。


では正しいことをしているときはどうなのだろうか。

正しいときは平凡でつまらない。

刺激もなく単調で時間が長く感じる。

良い情報は遅いが、悪い情報は秒速で拡散される。


悪い情報に惑わされ、信じることは快楽でもある。

人々は次から次へと快楽を与えてくれる悪い情報を求める。





結界を張り、自分の身を守ること。

今の私を守ってくれるものは、弟子のお母様が書いてくださった一枚の虚空蔵菩薩の画である。

全ての答えは自分の中にあること。

取り巻く環境も自分で選び構築していることを理解する。

助けられるのは他者でなく自分でしかない。


SNSに利用され踊らされている私達が向かう場所はどこなのだろうか。







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