綿薩摩単衣
着物を着ていると褒められる。
丁寧に扱われる。
非日常を感じる事ができる。
一流ホテルのラウンジでお茶を飲んだり老舗の料理屋でランチを楽しむ。
着物は気分を上げたり女として磨きをかけるためのアイテムでもあった。
しかし、コロナ後の今、着物を着ていると怪訝そうに見られたりする事が多くなったと知人はこぼす。
こんな時期に何をチャラチャラと・・ということだろう。
無理もない。
失業や閉店、連日の感染者数報道。
ワクチンやオリンピック問題。
批判が飛び交う荒んだ日々の中で、華やかな着物で食事など誰の目から見ても美しいことではない。
とはいえ着物を着ないという選択は私にはない。
ただコロナ前とコロナ後の着物に対しての考え方は大きく変わった。
個の存在アピールが世の中に溢れている中で、どこか無になることを望んでいる。
自然と同じ姿でありたい。
例えば、古寺の中で沈んで見えなくなるような静かな存在になりたい。
協会の代表であるうちはまだまだそうはいかない部分が多いが。
永江明夫先生の綿薩摩は、絹以上の艶と柔らかさを持つ。
麻よりも涼しく、軽い。
風が通り皮膚が呼吸するので、蒸れたりすることもない。
春も、夏も秋も、常に快適である。
汗をかいても雨が降っても、木綿であるので気にすることはない。
先生はもう第一線を退かれているが、作られた作品は木綿の最高峰として残る。
着ることに神経をはらう絹の上等な着物では自然に溶け込めない。
そんなことを思いながら、あまり人が訪れない古寺を散策するのが最近の楽しみでもある。
いずれお気に入りの寺を紹介できたらと思う。
先日私の体調を長年管理し、全てを任せていた主治医が亡くなった。
私よりうんと若い。
世の中の事は常に変わっていくのが当たり前で、それをいちいち大きく捉えていると前には進めない。
変わっていく事が自然であり、その変化を受け入れられない人が多くなった。
いつまでも若く美しい姿を追い求めて、年齢にそぐわない姿や振る舞いで自分を誤魔化すことは虚無を引き起こす原因でもあり、精神バランスを崩す。
自分の老いをしっかり見つめてからもう一度奮い立たせて向かう姿であれば、それは美しいと思う。
いつもそう自分に言い聞かせている。