着姿の微調整
変化をマイナスに捉えるかプラスに捉えるかでその先の見え方が違ってくる。
どうしようもない悪い変化の最中であっても、何か一つでも良いことを見つけてそこを膨らませるようにしていく。
そんなことをしても無駄だとか、やっても仕方ないなど、モチベーションの上がらない言葉が頭をよぎるがそれ自体は正常な心の動きであり、そうやって多くの人々が雑多な聴衆の意見に巻き込まれて沈んだ心を持て余している。
そこから無理やり一歩でも這い上がれば、億劫ではあるが少しだけ違った世界も見えてくるのだと思う。
これから世の中が良くなるとは考えにくく、できれば無駄お金は使わずに何かの時に備えるのが良しと考えている。
そんな中で動画配信を始めたが、コンセプトは「無駄なエネルギーやお金をかけない中での日々の楽しみ」となっている。
エドシカルチャンネルの2回目の放送をアップしたので是非ご覧いただきたい。
プレミアムプロの編集は難しいが楽しい。
コロナ時代で新しい発見といえば、私は動画編集が全く苦にならないということだった。
さて、髪を切ってから着物についても様々な微調整をしている。
襟元の合わせ方、髪の色、半襟の色など。
最近は衣紋をあまり抜かなくなった。
衣紋を抜けば女らしい襟足を見せることが出来るのだが、残念なことに50歳になった頃から顎のラインから襟足〜首〜肩にかけて贅肉がつき、年齢がはっきりと出てしまうことに気がついた。若い時はシャープなラインのはずだったが、今はその部分に妙なシワや丸みが出て老けて見える場所となった。
襟足に年齢が出るとは考えもしなかった。
例えば、タートルを着ると首のシワが隠せるので若く見えるという法則もそうであろう。
最近はショートヘアで衣紋を抜くとあまり良いバランスではないので、詰めて着るようになった。
そうすると中年のややだらしない雰囲気の首まわりに(私の場合はそうであったが、誰もがそうとは限らない)
キリッとした清潔感が出た。
これは白洲正子の着姿から学んだことである。
50歳なったら色気は出さずに着ようということは40代から考えていて、そのかわり可愛らしさは捨てずに置こうと考えた。
今はその微調整の途中である。
色気も可愛さも捨ててしまったら、女でいる必要も無くなってしまう。
なので可愛いは少し残し、そのまま可愛いおばあちゃんに向かって行きたいと思う。
可愛いは何もピンクを着ることやフリルを身につけることではなく、考え方がひねくれてなく真っ直ぐであったり、人の批判をしないとか、興味の対象が色々あってアクティブであるとか、若い人の意見を取り入れる事でもある。
少なくとも老人の意見に賛同するより若い子の話に乗っていく方が楽しいような気がする。
そういえばここ数日、やはり化粧はしない方が自然な気がして眉毛だけを書いている(これは若い時に抜いてしまって薄くなっているので仕方ない)一度増毛剤みたいなものを眉毛に塗ってみたらあちこちととんでもない方向に毛が生えてしまって、結局抜くはめになった(笑)
微調整の日々は楽しく、着物はいつも楽しい。
新しいものを買わなくても、手元には沢山の着物がある。
そしてまだまだ親戚からお下がりはやってくる。
たまに帯や小物を新調するだけでいくらでも楽しめる。
安上がりな趣味だと思う。
コロナで経済が悪くなっても趣味にそうお金はかからないので、問題はない。
いよいよ食べれなくなっても、小さな畑がある。
家族の食べる分は何とかなる。
そうなったらお金の価値よりもお芋の価値の方が高くなるだろう。
戦争中は、着物をお米やお芋に変えたのだから。
そんな時代が来ないことを願う。