キモノのこと

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お茶と着物のこと

2020年1月10日 10:56  


銀座松屋で開催されている「利休のかたち」

その中の赤楽「白鷺」

言葉では稚拙な表現しか出来ませんが、美しさにはぞっとする存在感があるのだと思います。

その場を離れられないような、毒のある美しい道具のために様々な武将たちが命をかけ、家族を犠牲にしてきたこと。

その歴史を見るような展示でございました。

三島や珠光、また斗々屋などの高麗茶碗。

胡銅の花入、利休丸壷、利休尻膨など唐物も多く展示してあり、会期中にあと数回は赴きたいと思っております。


お茶をやられている方は唐物というものに日頃から深く関わっておられるかと思いますが、着物の世界でも唐物は重要な通過点でもございます。


そもそも唐物は唐の時代とは関係なく中国からのもの全般を指しております。

日本では平安時代初期にすでに貴族間で重要な献上物となっておりますが、鎌倉時代に入り、喫茶の習慣が日本に広まりますとさらに唐物が茶道具としての位置を確固たるものにしていきます。


応仁の乱の後幕府の財政が厳しく、足利義政が大量の唐物を切り売りします。

この将軍家曰く付きの唐物が東山御物でございます。

安土桃山から茶の湯が政治の手段となり織田信長が贈与などに使うため沢山の唐物が集められますが。本能寺の変でほとんどが火の中に消えてゆきます。

豊臣秀吉も茶の湯を政治に利用いたしますが、高麗ものや国産が主流となり、徳川家康などは茶道具への執着は少なくなっていきます。


その後江戸時代に、長崎で仕入れた舶来品を商いとする「唐物屋」が現れます。

この中には香原料や染色、着物なども含まれます。



着物の世界では、唐物として中国の絹糸が一番とされておりました。

日本の絹よりも糸が細くしなやかで光沢があります。

支那繻子、チャイナシルクとも呼ばれ、帯裏に使用され昭和初期まで日本に向け生産されており、現在もその残りが「如源帯」として市場にわずかですが出回っております。

現在ある「如源」はもう100年以上前のものになります。

私が持っているどんな高価な帯よりも気を使って保存しております。

雑に扱えば100年経った生地に亀裂が入りかねません。





話は戻りますが、唐物が珍重されていた背景に日本の唐子文様がございます。

日本にある唐子文様では正倉院宝物「唐子文花氈」が我が国最古のものとされております。


唐子とは、髪の毛を頭の上や左右で結い他を剃り落とす髪型で、中国風の衣装を身につけた童子の事。

中国では吉祥文様であり、多子多福、家族繁栄を意味いたします。

江戸時代は子宝という思いが強く、寺子屋など子供の教育に力を入れておりました。

その時代から女性の着物や羽裏、子供の着物にこの文様が多く使われるようになったのでございます。

茶道具では唐子が手を繋いでいる愛らしい蓋置きをよくご覧になるかも知れません。


私の茶道具はお見せするようなものは何一つ持っておりませんが、先日友人との気楽なお茶の時間に、安南の染付茶碗を使いこの唐子の帯を締めました。

京都のかづら清老舗さんで購入した唐子の帯留はお茶以外の時に合わせて付けております。

三分紐は「柿渋色」でございます。



新しいものより、時代を経てきたものに興味が向くことの方が多く、しかし着物の先生としては如何なものかと思って参りましたが、自分の好きな世界に進むことも今の講師達なら許してくれそうな気がいたします。

100年を経てもなお、私のために存在してくれる「如源」の帯は百合の絵から強い香りが漂うような迫力でございます。

弱気な時、この百合に「汝、毒を恐れるな」と励まされております。


松の帯はよくある文様で「大島織」でございます。

家に何枚かございましたので昭和初期のものと思われます。

この帯の便利なところは、妙な派手さです(笑)

紋付色無地に袋帯を合わせたくない時、帯が重いと感じる時に、名古屋でもこのように吉祥文様で金糸銀糸が使ってありますと、格が揃いますので使えます。


どれも祖母が生きていた時代のものであり、今それを身につけ日本を歩けている事に誇りを持っております。

戦争という時代を経て生き残った帯や着物を、大切にメンテナンスをして、お金もかかりますが、今の時代に着る事に意味があると思うのです。


小さな茶室の中に歴史と共に広がる世界があるように、着物の中に私の世界を表現できるようになりたいと思うのでございます。




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