千葉あやの「藍に生きる」上映会
このブログを書く少し前にヴィム・ヴェンダース監督のPERFECT DAYSという映画を観た。
単調であっても日々の生活に美しい世界を見るという映画だが、千葉あやのさんの笑顔とこの映画の役所広司の笑顔とが重なった。
私が13年間探し続けた千葉あやのさんの「藍に生きる」という映画のフィルムが湯布院の公民館で見つかった。
執念の賜物であるが、見つかった時の喜びは大きく今でも忘れられない。
その上映会と私のトーク、また語り部の方のお話などを聞いていただく会を灯屋2で行った。
千葉あやのさんの宮城県文字村(現栗原市)と、私の祖母の生家のある栗原市善光寺は近い。
私は生まれてすぐに養女に出たが体が弱く、跡取りとしては不十分であったため(養母が結核の為仕方なく女の子を跡取りとして養育し、婿養子で繋ぐとなったらしい)
実の祖母の故郷栗原で療養することになった。
3歳から7歳ごろまでの話である。
栗原の田舎で、綺麗な空気と素朴な食事、藍の着物と裸足の生活ですっかり体質が変わり丈夫な子供になった(皮膚も弱く、何にでもすぐにかぶれて赤く腫れてしまっていた)
その藍の着物が千葉あやのさんのものであったかどうかは確かではないが、祖母の話では近くに藍染をしている農家はいくつかあったと聞いてる(現在は栗原家のみ)
栗原の空気と藍が私に健康な体と皮膚を与えてくれた。
これは以前にもブログに書いた事かもしれない。
伝統色彩士協会立ち上げの頃、手元にある千葉あやのさんのスライドを授業の最初に皆さんに観ていただくという決まりごとがあった。
しかしある時、生徒の皆さんが求めているものと私が学んで欲しい事が違っていることに気がついた。
皆さんは田舎のおばあちゃんの昔ながらの藍染の技法など興味はなく、青山に事務所を置き表参道などで華やかな着物と色を仕事としている私の環境に憧れを抱いてくださっているのだと。
求められていることを出していくのが仕事であり、自分の好きなことを押し付けるのは趣味の範囲でしかない。
そう思ってからは千葉あやのは封印した。
私のルーツなどどうでも良いことだ。
「和のパーソナルカラー」というコンテンツがどれだけ皆様にお役にたつか、そのコンテンツを学ぶことでご自身のお仕事にプラスになるか、または着物の深い学びになるか。
それだけを考えれば良い。
皆様が喜ぶような仕事や企画をして、楽しんでもらえるようにしていくのが私のやるべき事である。
あれから13年が経ち、探し続けた千葉あやののフィルムが出てくるということは、何かの意味があるのだろうか?
そんな風に思った。
2021年10月に千葉あやのさんの着物を着て私が栗原に里帰りをするという番組が仙台放送で製作され放送された。
(順次インスタには動画をアップしようと思う)
また今年は「美しいキモノ」で私が染めた紅花染の色無地も皆さんに見て頂けた。
色を学ぶことは染めを学ぶことである。
その言葉に少し重みが加わったようで嬉しかった。
仙台放送の時に栗原に帰ったが子供の時以来なので50年近く経つ。
現在の栗原よりは映画の中の1970年の栗原の景色の方が私の記憶に近い。
気の遠くなるような「正藍冷染」の一連の作業を映画では80歳を過ぎたあやのおばあちゃんが淡々と進めていく。
そしてカメラに向ける笑顔に、充実した生活であろう満足感が感じられる。
深いシワに埋まっている表情が輝いている。
人間の幸せとは何であろうか?
SNSにコントロールされてしまう生活から脱することはもはや出来ない我々の日常にはこんな充実した心からの笑顔などあるのだろうか。
笑顔があったとしてもその中には欲という魔物が住んでいて、いつもどこかで計算をしている醜い自分を見せつけられるようでもある。
映画の中の千葉あやのさんの生活は、過酷で不便なことも多く何もかも足りていないように見えるが、そこには今を生きるという確固たる自信と幸福感が満ち溢れている。
そんな時に染められたあやのさん88歳の時の反物は、着物となり今の私と一緒に生きている。
あやのさんは89歳の時脳梗塞に倒れ、90歳で亡くなっている。
もしかしたらこの藍染は生前最後の作品だったのではないだろうか。
今年5月、あやのさんから「正藍冷染」を受け継いで来た千葉まつ江さんが93歳で亡くなった。
あの日のまつ江さんとのお話が最後になってしまった。
もう一度お会いしてもっと沢山お話を聞きたかったと残念に思う。
何でも変わってしまったり失ってしまってから、それが大事なことだったと気がつく。