キモノのこと

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50年後の真実

2021年11月5日 09:00  


写真は7歳の祝いの私です。

以前はこの着物を京都で祖母に誂えて貰ったものとブログに書きましたが、この写真の着物は祖母が選んだものではないのでは?と疑問を持つようになりました。


祖母が亡くなったあと祖父は京都の芸妓さんを家に入れました。

奈良菊さんというその女性との間に男の子が一人いましたが、認知しても遺産相続権は放棄したと聞いています。

もちろん入籍もしていないと。

しかし今回の仙台放送の関係で、祖母の生家の栗原の住所を調べるために戸籍を取り寄せたところ、祖父が亡くなる半年前に奈良菊さんと入籍しており、祖父の死亡届と共に除籍となっていました。

その紙を見た瞬間に記憶の奥底が鮮明に思い出され、「何も望まないが妻の立場で祖父を見送らせて欲しい」という彼女の言葉がはっきりと耳に聞こえた気がしました。

親族一同が反対していましたが、長男である父が許したのでしょう。


さっぱりとした紬姿の祖母と違い、女らしくしっとりとした風情の彼女が私は嫌いでした。


しかし私のおさがりの着物の中には、とても祖母が着たものとは思えないものがあります。

叔母のものだと思っていましたが、叔母も茶道一筋で色無地ばかりだったような気がします。

では一体これは誰の着物だろうか・・・・。

そう考えると、祖母に連れられて行った日本舞踊のお稽古場の記憶にも疑問が生じます。

あの祖母が踊りを私に習わせるだろうか?

いつも手を引かれて稽古場に行く時の、その人の赤い塗りの下駄とヒラヒラとなびく着物の裾から見える綺麗な菊の刺繍。

八掛に刺繍が施されていたのだと、今ならわかります。


小さな私には、足元の記憶しかありませんが、あれはもしかしたら祖母ではなく奈良菊さんだったのでは。

あの方はその当時から祖父のお妾さんだったのでは。


そんな風に考えるようになると、祖母の記憶と彼女の記憶がごちゃ混ぜになり、心がざわつきます。

とても可愛がって貰ったと聞いています。

ということは、着物が嫌いな母に代わって私を京都に連れて行き、7歳の祝いの着物や簪、ぽっくりなどを誂えたのは祖母でなく奈良菊さんだったのでは?

以前ブログには祖母に連れられてと書いていますが、その記憶があやふやです。

7歳の祝いの頃のことを祖母が全く話題にしないのはそういう事情があったからかもしれません。


私の言葉に変な関西訛りがあると生徒に言われた時、日本舞踊の先生が京都の人だったからでは?と以前ブログに書きましたが、それは踊りの先生ではなく、京都の芸妓だった奈良菊さんの影響だったのでは?

年頃になると、祖父と会わないようにときつく言われしばらく離れていましたが、私がお妾さんの事がわかる年代になったからなのでしょう。


兎にも角にも私の人生は着物で彩られており、そのおかげで今の仕事があります。

祖母にも奈良菊さんにも感謝せねばなりません。

とはいえ、昔だからまかり通る話ですが、今でしたら祖父は袋叩きでしょう(笑)


どんな時も着物姿であった二人は外見の違いはどうあれ筋の通った強い女性でした。

これから更に厳しい時代が来ようとも、着物と共に乗り越えていけるように思っています。

文化を残す事が役目であるなら、今の時代こそしっかりと立たねばなりません。

日本人として。



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